高齢者施設でクラスター!?「入居者が生き殺し」状態の高齢者施設

まさ
まさ

超高齢社会に突入している日本・・・。

そして、未知のウイルスとの共存しなければいけない社会。

この現実を、「どう受け止めていますか??」

 

こんにちわ、まさとです。

今回はぼく自身も考えさせられる内容だったので

ぜひ一緒に考えたいテーマを取り上げます!

 

それは・・・「コロナ禍での高齢者施設」についてです。

(※あくまで一部の見解のため、すべての高齢者施設に当てはまるものではないことを先にお伝えします)

 

少し重いテーマにはなりますが、お付き合いください。

高齢者施設でクラスター!?「入居者が生き殺し」状態の高齢者施設

コロナウイルスが蔓延した影響で

「高齢者施設でクラスター発生」

という言葉を目にするようなことがあります。

 

さて・・・そんな時

「あなたは何を感じて、何を思い浮かべているでしょうか?」

 

 

「あー・・・大変そうだね」

 

「施設の管理はどうなってるんだ!?」

 

「特に何も感じないな・・・」

 

仕事として現場に関わっていなかったり、自分の家族が施設に入居していなければ

きっとほとんどの人が「他人事」だと思います。

 

父親がガンでなければ、ぼく自身も「他人事」だったかもしれません。

 

 

ここからは一つの視点を紹介します。

ぼくと同じ30代前半からさらに若い世代には、ほとんどが持っていない視点が父親から届きました。

きっと想像もできない視点だと思いますよ。

入居者が「生き殺し」の高齢者施設

以下父親のメール内容です。

普段はテレビは「ながら」で流しているのですが、ニュース報道などで、「高齢者施設でまたもやクラスター発生」といったニュースが流れると、ドキッとし、思わず読書やパソコンの手を止めてしまいます。

 

「高齢者施設でクラスター」という言葉に、妙に敏感になっているんですね。

 

たぶん、ハーモニカ・ボランティアで行っている先のデーサービスに来ている方たちや入居者の人たちの顔が、頭に浮かぶからでしょう。

「あそこ(ボランティア先)は大丈夫かなぁ」と気になったりします。

特に身動きの取れない高齢者施設の入居者が気がかりです。

通いでデーサービスに来る人たちは、高齢といっても元気な人が多く、不自由さを抱えてはいるものの、自分で歩ける人たちも少なくありません。

 

みなさん活発で、おしゃべりが大好きな方たちが多いですね。

一方、入居している方たちは、ほとんど移動は車椅子という方たちが多く、軽い認知症の方もいらっしゃいますから、どちらかといえば無口になっている方が多いです。

 

四畳半ぐらいの個室のベッドで、話相手もなく、一人でいる時間が多いと、そうなってしまうのかもしれません。
私の家に来てくださっている介護ヘルパーさんの話によると、コロナ禍にあって「高齢者施設の入居者の方は本当に気の毒。今じゃ家族の面会もできないし、オンライン面会なんて味も素っ気もない。まるで生き殺しよ」とのこと。

私は「生き殺し」の意味がわからず、あとで調べたところ

辞書にもない俗語で、「生き殺し」

・生きていることが辛い状態にされること

・生きる意味を感じられない中途半端な状態にされること

という意味でした。

入居者は一階のデーサービスをしている場所にも下りられず、かつては日課であった庭の散歩もなくなり、これでは本当に「生き殺し」です。

 

しかも、これらの高齢者施設は慢性的な人手不足、一人の職員が二台の車椅子を押している姿も見たことがありますし、新しく入った職員も1〜2ヶ月もしないうちにやめてしまっていることが多く、これではきめ細かい介護などやれという方が無理というものです。

 

ただ、この人手不足問題はコロナ禍だけが原因ではありませんよね。
「他人の心配をしているどころではないだろ」って言われそうですが、その施設を終の住処として限られた命を生きている入居者たちと私は、考えてみれば同じなんですね。

ですから、私にとって彼らのことは、他人事じゃないんです。それが今ではコロナ禍で半ば監禁状態です。

想像するに、私がかつて経験した『東京拘置所暮らし』と変わりがないようにに思えてきます。

私の場合自宅療養ですから、何と言っても自由が利きます。

・天気がいい日は散歩もできます。

・いつでもおしゃべり相手がいます。

・ハーモニカの練習もできます。

・こうやってメールも打てます。

彼らに比べれば、雲泥の差、「生きる意味」が感じられます。
このコロナ禍は、老いにどう備えるか、老いて自分の身の回りのこともできなくなったときどうするか、そんなことを考える上で、大きな教訓を残しているような気がしてなりません。

 

ガンで死と向き合うことと、老いて死と向き合うことと、そこに本質的な違いがあるとは思えないからですです。

どちらも問われているのは、その日までをどう生きるか、どうやって充実した日々を送るか、その一点なんですよね。

拘置所暮らしと変わりがない

少し過激な表現かもしれませんが

社会運動家だった父親にしか表現できない言葉だなーと思いました。

 

念のため伝えておきますが

父親は留置所に入った経験をしていますが、凶悪犯罪などをしたわけではありません・・・笑

今の日本では想像が難しい時代背景があったみたいです。

学生運動や国鉄運動という社会運動を通して、闘った結果・・・留置所に入ることになったと。

 

現在、ミャンマーや台湾などで起きている「政府と市民」の間で起きている「権利を求めた闘い」

この出来事に近いものですね。

 

ぼくは留置所に入ったことがないので、あまりリアルには想像できませんが

「自由を奪われる」「生きる意味が見いだせなくなる」

という言葉であれば、今のぼくには一番わかりやすいかなーなんて思います。

 

・自由を奪われ、生きる意味を見いだせなくなる高齢者。

・奪いたくなくても、そうせざるを得ない施設運営者。

 

他人事としてではなく、真剣に考えていかないといけない部分かもしれないですね。

必ずぼくたちは歳を取ります。

そして最後を迎えるときに自分が施設で同じ状況になったとしたら・・・。

 

最後に、もう一度聞きますね。

超高齢社会に突入している日本・・・。

そして、未知のウイルスとの共存しなければいけない社会。

この現実を、「どう受け止めていますか??」

以上、高齢者施設でクラスター!?「入居者が生き殺し」状態の高齢者施設

でした。

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